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2008年4月13日 (日)

中南米編37 日本移民草分けの地

1080km/100994km フォス・ド・イグアス-サンパウロ-サントス-サンパウロ

005s_america イグアスの滝から夜行バスに乗って17時間、南米最大の都市サンパウロにやってきました。今回の移動でこの旅始まって以来10万キロを突破しました。地球を2周半したことになります。随分長い距離を移動したものです。でもまだこれからも続きます。

010p1060117 バスの中で偶然日系2世の方とお会いしました。前田さんとおっしゃりご両親は高知県出身だそうです。日本語は簡単な会話なら大丈夫です。奥さんはこちらの方だそうで奥さんや3人の子供さん達は日本語をほとんど話さないんだそうです。ですからご本人もだんだん日本語を忘れてしまっているそうです。とは言え67才とは思えぬ元気さで道案内をして下さいました。どうもありがとうございました。15年前に渡日して高知の親戚の人達と会ったことは忘れられない思い出だそうです。前田さんと話をするうちに日本人の移民がブラジルにどのように渡り、またその後どういう運命をたどって現在の生活を営んでいるのかを知りたくなりました。

サンパウロ、人口1500万人、この1世紀弱で人口が10倍に膨れあがったそうです。地下鉄も3路線ありブラジルの国民総生産の実に50%はここで生まれるそうです。今やブラジルのいや南米の経済、文化の中心と言える大都市です。
このサンパウロに今年100周年を迎えた日本からの移民の深い歴史が刻まれています。

現在ブラジルに住む日系人は130万人で全人口の1%弱を占めるそうです。そのほとんどがこのサンパウロ周辺に住んでいるのです。
ここには出身地毎に47全都道府県の県人会があるんです。どれだけ多いかが想像できますよね。
110p1060132 リベルダージ地区と呼ばれる東洋人街(昔は日本人街と呼ばれていたが近年中国人、韓国人が増えたのでこう呼ばれるようになったそうだ。)にはこのように提灯の街灯が灯されその中心部にある大阪橋には大きな鳥居がかかっています。

120p1060133 130p1060126 140p1060129 145p1060139 150p1060120 160p1060131 170p1060138  中心街を歩くともうびっくり。寺、本屋、布団屋、電器屋、着物屋、食堂、ラーメン屋、スーパーなどが所狭しと並んでいるんです。スーパーに入って更にびっくり。食器、台所用品などの家庭用品、文房具、それに味噌、しょう油、ブラジル産日本酒、納豆、豆腐、漬け物、刺身用の魚、白菜やごぼうなど日本と同じ野菜、米、うどん、高野豆腐など乾物、冷凍食品、お菓子、それに弁当や総菜などなどもうまるで日本の大きなスーパーが丸ごと引っ越してきた感じです。買い物しているのも日系人が多いので本当に自分は日本に帰ってきたのだという錯覚に陥ってしまうほどです。ここが世界一大きな日本人街だというのもうなずけます。

180p1060194 190p1060197200p1060198  また週末になると駅の周辺にたくさんの屋台が並びます。その中に”南米神宮”の出店があってお守りまで売っているんです。今川焼きやたこ焼きまでありました。

210p1060163 ある日このお弁当を買ってサンパウロから75キロ離れたサントスと言う港町に行きました。
そこは100年前に日本から初めての移民781人を乗せた笠戸丸が上陸した場所です。丘の上に登ると港が一望できます。100年前どんな思いでこの地に降り立っただろうと思いを馳せながらおいしい日本食弁当をいただきました。

220p1060174 これは日系移民上陸記念碑。サントスの海岸に10年前の90周年記念に建てられたそうです。そこには”この大地に夢を”と大きく書かれていました。このように大きな夢を持って日本からやってきたんでしょうね。

310p1060190 320p1060192_2 さて当時サントスに上陸した移民の方達はこのような移民列車に乗ってサンパウロにあるこの移民収容所にやって来ました。ここは現在移民博物館として公開されています。世界各国からやって来た移民の歴史が紹介されています。

330p1060159_2 340p1060184 350p1060186 その中には笠戸丸でやって来た最初の方達の写真や当時の生活ぶりが紹介されていました。また移民データベースがあって名前ややってきた船で検索できるようになっていました。

リベルダージ地区にも博物館があります。ブラジル日系移民史料館です。こちらはその名の通り日本人の移民の歴史、そして現在をいろんな角度から展示していていてとても興味深いです。
写真は撮れませんでしたがその内容を要約してみます。

1908年から太平洋戦争が始まるまでの30年余りの間に20万人近くの日本人がブラジルに渡りました。最初の頃は言葉も解らず気候、食べ物も違う場所でただ働くばかりという奴隷と同様の暮らしだったそうです。移民の父上塚周平氏の有名な句があります。”夕ざれや 木陰に泣いて コーヒーもぎ” じーんとする句ですね。
こういう苦労を重ねながらも彼らは歯を食いしばってがんばり次第に自営開拓農を始めていろんな作物や家畜、それに養蚕、野菜、果物、い草などを次々と成功させていきました。そして商工業にも進出して活躍の場を広げていったのです。
こうした矢先の1935年ブラジルでナショナリズムが起き日本語を含む外国語の教育が禁止されてしまったのです。そしてそれに続き太平洋戦争の勃発。これによってブラジルの移民は孤立してしまうこととなったのです。
彼らは移民当初は自分達のことを在伯邦人と呼んでいました。いつかは一旗揚げて日本に凱旋帰国する、そんな思いがあったに違いありません。
ところがこうした状況からその夢は断念せざるを得なくなってきました。2世や3世も生まれ育ってだんだんとこの地で生きていこうという思いに変わってきたのです。その頃から自分達を日系ブラジル人と呼ぶようになったのです。
また遠ざかっていた祖国日本との交流が再び活発になった出来事があったのです。それは1949年、古橋広之進をはじめとする日本水泳チームが全米選手権で4種目において世界新記録で優勝したことです。その翌年にはチームがブラジルを訪れて熱烈歓迎を受けたそうです。これは余談ですがこの時古橋広之進はアメーバ赤痢にかかってしまい、その後遺症で52年のヘルシンキ・オリンピックでは不振に終わってしまったらしいんです。これはブラジルでの生活がそれだけ大変だというひとつの証拠にもなります。
1953年からは移住が再開され新移民として更に6万人がブラジルに渡りました。
それからは個人だけでなく日本企業も次々にブラジルに進出していきました。
その後1980年代には今度はブラジルから日系人が日本に働きに来るという逆転現象も起きて現在に至っています。

360p1060202 またこの史料館に勤めている日系2世の土居正さんにいろんな話を伺いました。
日系移民の意識も時代と共に変わってきたそうです。言葉も通じなかった1世の方達は日本人同士が助け合う為に県人会などの組織を作っていたそうです。しかし2世になると学校では日本語を習わないので(習わせる家もあるそうです)次第に日本に対する祖国と言う意識は薄れていくようです。その代わりにブラジル社会により深くとけ込み実業家や政治家なども出てきているのです。

移民の歴史としてはハワイに遅れること50年、アメリカ本土やペルーよりも後発でした。
最初の移民がブラジルの土を踏んでから100年。先代の苦労を足がかりにして着実にブラジルに根を下ろしている日系人。
今年は皇室の方をお迎えして記念行事が行われる予定だそうでみんな楽しみにしているようです。
これからも海外で日本人として、いや日系人として永く活躍していってほしいと思わずにはいられませんでした。

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